ヴルルの島はどこにある
『狼少年に星屑を』に続いて2回目のおぼんろ。
その間にルドベルの両翼を配信で見たけどやっぱり生で文字通り
"体感" するのが面白いなと思って観劇というより参加だし、体感が感覚として近い様な
おぼんろはどうしても見るたび泣いてしまうんだけど、
それがすごく思議でどうしてだろうなと思ってヴルルの島を見て思ったのは
愛を感じるからだなと思って、これがキンキラキンのラブかぁという気持ち。
予定調和のハッピーエンドがあまり好きではないし、むしろハッピーエンドで
終わらないといけないとも思ってないんだけど誰かを愛する気持ちとか誰かを思いやる
気持ちに溢れてて本当に素敵な物語だった。
あの末原さんのいつもの事前のお話でぐーっと物語の中に引き込まれるというか
連れて行かれるからすんなり物語の中に傍観者じゃなくて"参加"出来るのが、
本当に楽しい。
会場の新宿FACEが大きい会場という事もあって前回の時*1よりももっと縦横無尽に会場内を語り部の皆さんが
行ったり来たりするのも楽しくてあの会場で見られた事も本当に良かった。
お話の内容は後悔してもしきれない事とかやり直したくてもやり直せない事とか
たくさんあるよなと思って、ただ愛があるからみたいな綺麗な部分だけじゃなくて
無自覚で狡い部分とか酷い部分とかちゃんとそういう部分が見えるところも
それでも人を愛そうとするところがとても好きだなと思って綺麗じゃない部分も含めて
それでも人が愛おしいってなるのがおぼんろの物語なのかなとしみじみ考えしまった。
なんとなく勝手に私がそう思うというだけだけど。
演劇って演じる側の創造する世界とそれを見ている側の想像力ががちっとはまらないと
同じ光景を共有出来ないし、それが出来て初めてお芝居って面白いんだよなと言うこと
を思い出して、何が面白くて演劇を観に行くのか、みたいな事も考えさせてくれて
そういう部分でも本当に楽しくておぼんろは不思議なスタイルのお芝居だなとも
思うけどそれと同時に根本的なお芝居の楽しさを教えてくれるような気がした。
アゲタガリとホシガリの関係性がとても好きで、与える者と奪う者という名前の部分、
因果関係みたいなことも好きなんだけど、アゲタガリがなぜアゲタガリになったのか、
ホシガリがなぜホシガリになったのか?そこの関係性が明らかになるところと
アゲタガリにアゲタガリという名前を与えた(そのつもりがなくても)のはホシガリで
多分お互い初めて誰かに与えた/誰かに貰ったんだろうなというのもこの2人の関係性を
思うと本当に愛おしくて、奪う事が自分のアイデンティティだったのが
初めて誰かに与える事が出来る自分にアゲタガリに名前を与えた事で初めて出会う、
とかそういうことなのかなーと勝手に。
わかばやしさんの演じるトリツキが本当に可愛いくて邪気がなくてふわふわしてて
本当にシオコショーが好きでシオコショーが責任感でトリツキの側にいる事を
悲しがったりする時の表情とか、本当に好きだったんだけどあとジョーキゲン*2をちょっと思い出したり。疑心を知らないみたいなところとか。
そこからのヴルルのイシの人外感(多分神みたいな存在なのかな)が性別とか年齢とか
むしろ人間である事も超えてくるみたいなところが本当に凄い…。
あの中でシオコショーだけが戦争の事を体験していて、ジャジャからもトリツキからも
ホシガリからも何もかもを奪った事を知っていて、それでも後悔する事しか出来なくて
何も出来ない事を自覚しながら生きていくのはとても辛くて悲しいなと思いながらそれ
でも生きていくしかなくてそこに共感、ではないけど何も変えられないとか後悔する事しか出来ないってどうしようもない気持ちだなと思いながら、全部を抱えていても
シオコショーがそれでもトリツキを失いたくないって懇願する姿が何だか
とても愛おしかった。責任感とかじゃなくて本当に大事だから失いたくないって、
ちゃんと気づいて良かったなという気持ちにもなったり誰かから色んな物を
奪ってしまったから自分の手から奪われてもしょうがないかもしれないけど
それでも失いたくない物があるとか。
ヴルルの島はなくなってしまったけどジャジャはこれからどうやって
本土で生きていくのかなとかシュークリーム食べられたかなとか
光るボールペンの誤解は解けたかなとかこれからが本当に幸せであってほしいと
願ってしまった。あとシュークリーム食べたくなった。食べ物の影響は大きい。
そしてジャジャの正式名称をちゃんと言えるの本当に凄い。アゲタガリの品番?
もちゃんと言えるの凄い。
本当にクリスマスにぴったりな贈り物の話だった。
物じゃなくて誰かに贈り物をしたくなる様な気持ちのお話だったかなと。
おぼんろ見るとちゃんと言葉にして残しておきたくなる気持ちが後に残るのがなんだか
とても幸せだなと思う。