I was stage gazer

星を追う

プレイヤー

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を見てきた。

サイコ・ホラーだったのか…シュレディンガーという名前の犬の着ぐるみがアメリカのホラー映画の殺人鬼って感じだったのであれは夢に出てきちゃう怖い

内容は去年見た天球儀を思い出した。これは天球儀なのでは?と思った。アプローチの仕方がすこし違うけどたどり着く先が同じというか何とも面白かった。

劇中劇であるお芝居の稽古をしているんだけどそのお芝居の中で”天野真”という女性が失踪する、失踪した彼女の行方を追ってたどり着いた真相、彼女の真の目的が明らかになるところから凄くこの物語は”変化”する。信じるものと信じないもの。

彼女自身は舞台の上に役としては登場しないけれどみんなそれぞれの記憶の中に”天野真”がいる。"天野真"を知る者同士が彼女の話をする時に"彼女"が出てくる。彼女によって選ばれた8人は天野真の記憶を持っていてその記憶の断片を持ち寄ったところで天野真は”再生される”ゆえのプレイヤーである8人、という話が劇中劇の話で"天野真"の死、その目的について迫っていく。プレイヤーとなる8人の役者の他に演出家、プロデューサー、演出助手、制作、市長が周囲にいて物語の中にいる8人と物語の外にいる5人なんだけど演出家だったり制作は次第に物語の中に取り込まれていってるようで、特に演出家は途中から”天野真”自身になっている瞬間があったり。他人の体を借りて自分の言葉を再生するばかりでなく各々が持ち寄った断片の”天野真”から完全な”天野真”をこちら側にアクセス出来るようにした、全員”天野真”に取り憑かれている。お芝居の中では話が進むごとに全員”天野真”に執着して新興宗教のようになるんだけどお芝居の外側では実は全員この芝居を作った作家のプレイヤーである、作家の言葉を再生する再生機であるという真相が明らかになる。プロデューサーが"彼"を再生するために用意したお芝居。

この”取り憑かれている”という表現が逸脱だなと思っていて役者は役に取り憑かれて段々と演じている役と自分自身を同化させて言ってまさに取り憑かれていたし、その役を生み出した作家にも知らず知らずな間に取り憑かれていた。たまに誰の人格で喋っているの?という時があって、本人でも天野真でも演じている役自身でもない誰か、その誰かが作者である"彼"を再生、彼が向こう側からアクセスしている状況と言うのが見えてくるのがお話の終盤あたりだから誰か良く分からない人のの言葉を喋る違和感とか気持ち悪さは少しあるんだけどその誰かの片鱗が見えてからのお話の進み方がすごく早かったなー。

脚本は初稿のまま未完成だったんだけどお芝居が進んでいくごとに役者が考えて継ぎ足していく、でもこのお芝居を考えているのは自分なのか、役の人物なのか再生された作家なのか、境界が曖昧になっていってちらほら見え隠れしていた”彼”(作家)が出てくるシーンがラスボス〜〜〜!!!!!って感じだった。お芝居の段で演出家が”天野真”になるシーンがなって"天野真"とは?ってなるんだけど結局そこじゃなくて”彼”を再生することがこのお芝居の目的で、そもそも”彼”は自分の作ったお芝居をネットで公開して”彼”自身をアクセスフリーにする事が目的であったというラストにゾワッとした。役者は台本に書かれた”彼”の言葉を、思想を拡散する役者の体を借りて"彼"を再生する。彼は永遠と拡散されていく。彼の死は消化されない。この言葉通りに考えるとシェイクスピアは未だに"再生"され続けているという台詞がおもしろかったし、まさにそうだよなぁと思った。忘れ去られる事が本当の死なら言葉が思想が生き続ける限り"彼"は死なないし、他人の言葉を語る役者という職業をプレイヤー(再生機)と言うのも面白くて分かる…ってなってしまった。

役者本人と演じている役名2つの名前がそれぞれにあるんだけどそういえばいつからか役名でしか話しかけなくなっていったような気がするあれはどこからだったかな全員が役に飲まれて行ってる感じ。逆にプロデューサー、演出家、演出助手、制作は役割としての名前と本人との名前があるんだなとか思ったけど制作の子はなんとかちゃんってちゃんと名前呼ばれてたな…

肉体から離れたところの精神世界〜みたいな話もあるんだけどこれは新興宗教のオカルトめいた話で面白かった。信じるという事は信じざるを得ない状況を見せる事だとか。こういう手口か!みたいな。外にいる人をどう引き込むか、頑なに信じようとしない人を強烈な体験で引きつける、事によりより強力な作用点として利用する。反発が大きいほどその作用も大きい。

催眠術を掛ける(本当は臨床心理士)の仲村トオルさんとか死んだと思ったら生きとったんか!の藤原竜也(敬称略)のラスボス感がすごく良かった。あと成海璃子ちゃんとかテレビで見る役者さんが多くて豪華キャストだな〜って諭吉越えのチケット代を持ってしても大劇場を埋められるキャスト。勿論名前を初めて拝見した役者さんもすごく良かったし、私のお目当ては村川絵梨ちゃんだったりしたし可愛かった…あとイキウメの安川順平さんも外側の人間としての立ち位置が凄く良かったそれでも引き摺り込まれていくのとか。

テレビに出る役者以外は一人前の役者って言わないんですよ〜っていうメタい台詞があって満席・立ち見も出るくらいのプレイヤーに対して同じ会場・同じ条件(平日ソワレ)・チケット代も大体一緒の某作品が割と後方席は埋まってなかった事を思い出してしまいちょっと心が痛くなった。映像に出てる役者さんの集客力つよい。脚本の前川さんも演出の長塚さんも演劇界でめちゃくちゃ有名な人なのも分かるけど多分それだけで埋まった客席じゃないよなって(これはただのぼやき)

長塚さんの演出を拝見してみたかったんだけどこれ前川さんの演出・イキウメだったらどうだったんだろうというのもまた気になって。イキウメだと小劇場仕様だからまた違うんだろうな〜。

藤原竜也はすごい!ラスボス!去年鱈々で見た時は全世界の均衡を保つために僕は生きているみたいな自分をどこまでも縛り付けて生きている小心者のゲイの役だったからラスボスの方が藤原竜也〜〜!ってイメージあるかな。藤原竜也を見たって感じ

目の錯覚を起こさせるような、遠近感をおかしくさせるような仕掛けがいくつかあった気がしたし、シュレディンガーの着ぐるみが怖かった、最後の演出が映像(ドラマ)っぽいなってちょっと思った。うーん好みの問題かな…

とにかく一気に呑み込んでしまった感じがしたけどこれはまた改めて考えて咀嚼するのも面白いかなと言う気がした。

前川さんの作品は心がひやっとなる…急に冷たいものを差し込まれた感じ。ガッ!ってくる衝撃はなくてヒヤッとする感覚。

肉体を持つことに意味はない、精神体になっても生き続ける事ができる。それは永遠に生き続ける事でもある、みたいな事はイキウメの”天の敵”でも同じようなモチーフが使われていた事を思い出してあと時枝悟という名前がどうしても天の敵の”時枝悟”を彷彿とさせてしまった。

終わったあとにもじわじわ来るけど不思議ともう1回見たい!ってならないのは不思議だな…細部のあれこれが気になるところはあるんだけどもう1回って言われたらそれは別にいいかなってなるのなんでだろう…

凄く面白かった、んだけど思い返して感想書くのは凄く苦手だからやっぱり見た後にがーって書いちゃうべきだな…冷静になると見たときの感覚が思い出せなくて困る。