I was stage gazer

星を追う

Take me out 2018

再演の報を聞いてどうしても見たいと思いつつなかなか都合が合わない&踏ん切りがつかないままチケット手配を怠っていたら当日券チャレンジしかない状況になり、体調との兼ね合いでやっぱり行かなくてもいいかなと思いつつ見たら見たでやっぱり見てよかったーーーー!!ってなる作品でした。

でもこの作品について語ることは難しくてというか自分の内面についての部分に触れざるを得ない作品だなと思うのであまり客観的になれずに目の前に鏡を突き付けてられているような気分だった。

初演からかなり変更が加わっていて分かりやすくなった部分と、初見でついていけるかな?って不安になった部分があって再演のほうがとても救いがあるラストだったし、ダレンが自分の事を告白する部分は初演のほうが分かりやすかったな~と。ここでまずみんなついていってる??って不安になった。

でも全体的には再演のほうが分かりやすさがあるんじゃないかなと思ったような。

初演も再演も1回きりなので記憶があいまいだしかなり主観的になるんだけど見た人と色々話をしていて思ったのはキッピーの”善性”とデイビーの”善性”の話だったり、シェーンの与えられなさとか、カワバタの野球しかないみたいな発言だったり、ダレンの告白によってみんな己の被っていた皮をはがされた様な状態になると思ってるんだけど、そのなかでいかに傷つけあわずにいられるか、みたいな。ひた隠しにしていたかった部分をむきだしに晒してそれでも強くあるダレンが恐ろしくてとても怖い。

ダレンの正しさみたいな部分がみんな怖いんじゃないかと思っているというかわたしはみんなシェーンみたいな態度になってもおかしくないと思っていて、自分が”差別”をしない人間だという振る舞いをすることがとても怖い。

キッピーは自分の善性を信じていてそれを周りにも求める、”善く”あろうとする人間で、デイビーは神から与えられた善性を信じていて神から与えられた善性から外れる事を善としない、シェーンはそもそも”善”とすることが分からない、それでも自分の振る舞いが世間一般から正しいとされる事ではないと気づいている、ダレンは自分が神であるし、信じているのは自分だけ、メイソンはダレンによって”善”を肯定されたと思っている。という個人的な視点から見ていてわたしはシェーンの立場のような人間なのでダレンがとても怖い。

ぼくたちは”楽園”を失った、の”楽園”は決して楽園ではないというか楽園というイメージの場所だと思っているし”Take me out"、わたしを連れ出してくれるにもぼんやりと考えると思うところはあって明確に解釈してこうだと思う、みたいな答えがある作品ではないのかなと思うしこの作品を見てぼんやり自分を顧みてあれこれ話したり考えたりする事がこの作品を見た上で大切な事なのかなと思ったり。

表面的に分かりやすい違いだけじゃなくて、人はそれぞれ理解しあえなさを抱えて生きているんだなというか多様性を多様性のまま排除するでもなく”理解”しようとするでもなくその先にあるものって何なのかまだよくわからないし、ダレンもデイビーもキッピーもシェーンもカワバタもメイソンも己を殺さず生きられる”楽園”はどこにもないと思っているけれどそれでも再演においてこのお話にはとても救いがあるなぁと思った。

翻訳モノの抱える難しさはありつつもこの作品は本当にお芝居としても凄く好きであのセリフ量でたま挫折しそうになりつつもちゃんと拾い上げてくれる良作だなーと思っていて、本当に大好きな作品なので映像に残してくれるのが嬉しいけど映像に残るということは映像に残った分の公演がこの作品の唯一のものになってしまうのがちょっと寂しい。お芝居は生もので毎日見るごとにちがって映像に残らないからこそそれぞれの見たものを唯一として語れる良さがあると思っていて、映像に残るとその日のお芝居が唯一として残るのがすこし複雑な気分で、という余談。