I was stage gazer

星を追う

距離感とキネマと恋人の話

 

去年12月に見た舞台の話を今更、というかこの作品自体が、何かぼんやりと悩んでいるところにひっかかったというか、心に棘が刺さったまんまだなぁという気がして。

 

この記事を拝見してまた思い出した事もあり。

dailyoshikawaii.hateblo.jp

作品の感想というよりは自分の話をするから感想をお求めの方はすみませんという感じ。まともに見られなかった。個人的感情が入りすぎて

 

キネマと恋人の話をざっくりすると、映画が大好きで贔屓の俳優が出ている映画を見る事が一番の幸せのハルコが主人公、ハルコの現実はそんなに幸せでないけれど映画を見ている時はとても幸せ。ある時いつも見ている映画から贔屓の俳優が演じている間坂寅蔵が出てきた。映画は進行出来なくなりてんやわんや、偶然ハルコの暮らす島に映画の撮影で間坂寅蔵を演じる高木高助が来ている。間坂寅蔵が居なくなった映画は大混乱、間坂寅蔵と逃げるハルコは偶然高木高助を間坂寅蔵と間違えて、高木高助とハルコが出会う。憧れの俳優さんに出会って有頂天のハルコと周囲とうまくいかずに首ギリギリの状態からハルコと出会った事によってまた自分の夢を取り戻す高木高助、そして間坂寅蔵と高木高助の間で揺れ動くハルコ…!

ざっくりこんな感じだけど最後は間坂寅蔵ではなく高木高助を選んだハルコ、高助とともに東京で暮らす事を夢見て家を飛び出した、けれど約束の時間に高助は現れず、聞くと一つ前の船で先に東京へ帰った、と。また映画館に座って映画を見るハルコ。

カイロの紫のバラという映画を下敷きにした作品なんだけど最初は夢女子かよ!と思ったけどお話が進行する内にあーこれは私たち(みたいなオタクとか)の話ではないかと思ったし、結局現実はこんなもんだよ、という終わり方に凄く心を突き刺されたというか。

実際そう思った人が結構多いらしい。でもそれは現実から逃避するための娯楽を持っているという意味かもしれないし、それこそ誰かに対して夢を見ているという意味かもしれない。

「キネマと恋人」「(ヒロインの)ハルコはわたしだ」という主旨のつぶやきを散見。
元ネタの「カイロの紫のバラ」を観た23の時、「(ヒロインの)セシリアは俺だ」と思った私です。
たくさんのハルコにこの舞台を捧げます。

ケラリーノ・サンドロヴィッチ (@kerasand) 2016年11月18日

 

結局夢は夢の世界で現実は現実で混じり合う事がないとか、ハルコは間坂寅蔵に惹かれているんだけど結局映画の中の人だから、って高木高助を選ぶんだけど結局高木高助も映画の人なんだよね…というか高木高助がハルコを置いて行ったのは自分自身が夢を取り戻したから、だとかまあ一時の迷いだったとか…

高木高助と対照的に描かれる映画スター嵐山進はハルコの妹ミチルを娼館が見つからない代わりに一晩の相手にしてそのあともずっとミチルに追い回される、一晩の相手で後腐れないと思っていたのにミチルは東京に一緒に連れて行ってくれると思い込んでいる(占い師に言われたから)嵐山進はきっぱりと相手に夢を見せないように断るから酷いように見えて本当はこれが一番良いというか残酷でないというか…高木高助はファンであるハルコが自分のやりたい事やろうとしてる事を理解してくれて自分の演技をこうした方が良いんじゃない?とかアドバイスをくれてハルコに惹かれるんだけどそりゃあファンだからいちばん理解してくれるだろうしこうした方がいいとかもっと良くしてあげたいと思うよね…

もうちょっと作品の話をすると、演出がすごく良かった!空間の使いかたとか切り取りかたとか。映像もたくさん使うし、アナログな演出もあるし何よりアンサンブルの人たちの動きがとても面白い。セット転換はアンサンブルの人たちが行うんだけど、ダンスの様なすーっとした動きでセットを転換しているという余白の部分ではなくて作品の中に溶け込んでいる様な(説明が難しい)あの演出をもう一度みたいなと思うくらい本当に演出がとても良かった。でもお話に大分心を突き刺されていて。

 

(ここから私の話)私は舞台の上以外の推しには極力近づきたくないタイプで、(の割にイベントとか行く話はひとまず置いといて)ハルコみたいに最初間坂寅蔵と間違えていたとは言えベラベラ話しかけたりしないなとか思ったのと、役者を好きになる上で"役"(キャラクター)の部分として好きなのか、中の人も含めて好きなのかってどうしても悩む問題ではあると思っていて(リア恋とかそういう部分も含めて)個人的には演じている部分の中の人が好きなのであって中の人個人が好きな訳ではない!と思っているんだけど(役者という職業でなければ好きになってなかっただろうという事でもちろん)キネマと恋人の中で間坂寅蔵はハルコを好きになって、このまま映画の中には戻らずにハルコとずっと一緒に居たいと言うんだけど、その寅蔵を演じている俳優高木高助に好意を寄せられて、ハルコは高木高助を選ぶ。映画の中の人は映画の中の人だからみたいな感じで、まあ間坂寅蔵は本当に映画の中だけの事しかしらなくて本当に何にも知らないんだけど現実離れしている。でも私は役者さん自身を好きになってはいけないと思っていて、あくまでも”お仕事”の部分が好きなんだと思っている、というかそう思わないと”ファン”としていられないのでそう思うようにしている。だから私は中の人が好きなんじゃなくて外の部分(演じている部分)が好きなんだけどまあ、でも中の人も好きになっちゃうよね、中の人がどんなにクズでも外の部分(演技)が好きだからって好きになれる人もいると思うけど切り離そうとして私はうまくできなくて。でもそういうのだめなのかなーって思ったりする事もあって。 

なんでそういう風に思うのかというと分かり易い例をあげるとこれ

名前と顔が一致したくはないです。タレント性はつけたくなくて、自分自身を隠しながら、「この人、どっかで見たことあるけど名前がわからない……」ぐらいの存在でいいんです。それでエンドロールを見たとき、「あの人何役で出てたの?」と思われるような。

www.womaninsight.jp

ちなみに橋本さんはキネマと恋人で嵐山進役

橋本さんはいい役者さんなので本当にまた見たい…スタイルがめちゃくちゃよくて立ち姿ですぐわかる。

これは橋本さんのインタビューだけど似たような事を村井さんもイベントで話していて、色をつけたくない、透明でいたいみたいな。特定のイメージがついちゃうの嫌だからってプライベートの部分で隠してたりする事あるし、でもたまにそれはいいんだ?って事を話されたりするからよく分からんのだけど…何が言いたいのかというと”役者”として見て欲しいって事なのかなと思っていてプライベートの部分を知ってしまうと役を見た時にどうしてもイメージが邪魔をするというか多分何もその役者さんに関して知らない方がフラットに楽しめる。この役を演じるにあたって苦労されたんだなとか普段慣れない言葉を喋るなんて大変だなとかそういうのはお芝居を見る上で不要な部分で、そういう事考えると純粋にお芝居を楽しんでない事になるんじゃないかとか。だから素の部分に触れようとする事ってあんまりしちゃいけない事なんじゃないかって思ってしまってでもイベントとかされるなら行くよねってなるんですけどね…そこは見せてもいい素の部分を見せてくれるらいいのかなとか…。あと平野くんがカレンダーイベントでカレンダー出したくなかった、とか役者としての部分を好きになってくれたんだから、みたいな話もしていて(カレンダーイベントでカレンダー出したくなかったって話すごいな?)自分の話めちゃくちゃする人ではあるけれど(思いっきり木曜日とか番組もやってるし)いつも一線引いたように感じるのはそういうとこなのかなと思って。やっぱり”役者”としての部分を見なくちゃだめなのかなと…。こういう部分にオタクじゃなくて”ファン”(あくまで作品の一部としての演技を楽しむ様な)でいなくちゃいけないんだろうってジレンマがあったり。まあオタクなんですけど。ファンとして踏み込んじゃいけない部分って絶対あると思っていて必要な距離感というかこれ以上は知ろうとしてはしてはいけないみたいな部分。その部分まで踏み込んでいきそうでいつも怖い。だから必死に距離を保っておかないといけないなと思っているんだけど。ファンとオタクの使い分けは1つの作品に何公演でも入っちゃう様な作品よりも特定のキャスト目当てで見てしまうとかまあ自分の事だけど…距離感の取り方が違うのかなぁと。客席が埋まるかとか心配してしまうのはオタク(本来"お客さん"の立場であるなら考えなくていい事)ファンでいるためにはDDになるのが手取り早い気がするからとりあえずDDを目指したい…誰かを拗らせずに生きて生きたい…あんまりオタクになりすぎると自分が辛い事を経験上分かってるから

 

で、キネマと恋人の話に戻るとハルコさんはそのファンの部分を軽々しく踏み越えて行っちゃうから傷つく事になっちゃんたんじゃないかと思っているんだけど。夢と現実の境界を越えてはいけない。あと、間坂寅蔵についてって最後まで夢を見た方がよかったんじゃないかとも。高木高助を選んだのは夢の人と現実を共にする事を選んでいまったから、だと思っていて私はあくまで夢の人は夢の人のままで良かったんじゃと思ってる。それが適切な距離の測り方だと思ってる。

「キネマと恋人」大阪2ステージ目終了。御来場ありがとうございました。私はホテルの部屋で別の仕事ですが。
20分後には大阪最終ステージ。私はホテルの部屋で別の仕事ですが。
楽しんで頂けます事を祈ります。ちなみにラストはあれ、演出家してはハッピーエンドだと思ってます。ビターだけどね。

ケラリーノ・サンドロヴィッチ (@kerasand) 2016年12月8日

 まあKERAさんもこう言ってる事だし決して悪い終わり方じゃないんですよね…ハルコは辛い現実(夫からの暴力、浮気、金銭の要求)から逃れるために映画に通っていたけどその現実を捨てて(離婚して家を出た)夢の世界(東京)に行くという夢を見た、んだけど何もできずにあのまま暮らすよりもせめて一歩踏み出す事が出来たからよかったんじゃないかと思ってる。ただこれをよかったね、と受け止める事が難しくて心にずっと棘が刺さったままで…決して自分はリア恋?だとは思ってないんだけど、これのダメージくらうって事は少なからずそういう部分があるのかなとも思ったり。自分の事と切り離して見られないから余計に辛い。感想をいうにも絶対自分の話になってしまうし。

 

で、私は推しの何になりたいかという話。私は紫の薔薇の人でいたい…(去年ガラスの仮面も見た)真澄様はマヤちゃんが女優として成功するための援助も手助けも惜しまないしファンとしても熱心な…存在を認知されずとも懸命に応援したい…真澄様の一番偉いところは女優としてのマヤちゃんを愛しているから女性としてのマヤちゃんに惹かれている自分が居ながらその気持ちが女優としての妨げになるかもしれないと思って身を引く事ですよね…自分の気持ちより女優としての成功を願う。こうありたいなといつも思う。目指せ紫の薔薇の人(なれない自分がいる事を知っているからキネマと恋人に心を抉られる)

あとびっくりしたのが橋本さんがあんまりインタビューとかすら受けてなかったと言う事、このSNS全盛期情報化時代に凄いね…アミュー◯なのに凄いね…SNSがある事によってインタビューとか以外の部分からも素に触れる事が多くてもうミステリアスさ、みたいなものを保つのってすごく難しいんじゃないかという気持ちしているけれど(逆にジャニー◯とかの方がわからないのかも?でもテレビめっちゃでるしな)そういう風に実際できる人もいるんだなーって(橋本さん)思ってそういうのが本当は理想なのかなとも思ってイベントかやってくれたらもちろん行くんだけど本当はやらずにというかそういうイベントの類ってファンサービスの部類でもあると思ってるから(必ずしもそうじゃなくて販促とかの意味もあったりすると思うけど)そういうを事せずに役者としてのお仕事のみでファンが増やせたらいいよねえと思ったりする…でもこのご時世にさあとかまた考える。ファンでいる事の見返り、みたいなものはいい演技を見せてもられるだけで十分に貰えているから必要以上に望みたくないんだなとか。だから橋本さん凄いなってめちゃくちゃ思った(隣の芝が青く見えすぎた)まとまりないけどこれで終わり。

 

俳優ではなく役者という語感が好きで役者と言いたい、役の者なんだよなって思うとやっぱり俳優ではなく役者でいて欲しいなと思う。言葉の問題だけど。若手俳優という言葉が割と嫌いなのかもしれないその括りに入れられて欲しくないというか。若手なのは分かるけども。若手俳優がジャンルと化しているからかなぁ…そこにはまっている私が言うことでもないけど。

 

紫の薔薇の人には決してなれそうにはないけどできる事ならなりたい…